糾弾されるべきイレッサ訴訟原告

同情と責任 

イレッサ訴訟原告について、彼らの不幸に対して同情はできるが、その行為を許すことはできない。 医師と製薬会社と国を三点セットで訴えて損害賠償を求めるだけなら、好きにしてもらっても構わない。 しかし、原告は、当事者同士の争いだけで事を収めようとせず、全くの他人である難病患者を巻き込もうとした。 そして、次のような行為によって、多くの難病患者の治療の道を閉ざそうとしているのだから、その責任は重い

  • 何の根拠もなく医師を擁護して、国や製薬会社に責任転嫁していること
  • 多少の危険性と引き換えにでも早期承認を行なう必要性のある難病における早期承認を断罪したこと
  • 未来にしか知り得ない情報であるのに、あたかも事前に知り得たように結果論で事実を歪曲し、承認段階での添付文書に記載を求めていること

被害を受けたのならば、その責任を追求するのは当然の権利である。 しかし、その権利は、他の患者を不幸に陥れる免罪符にはならない。

しかし、本日イレッサ裁判で中心的な役割を果たしている
原告のお一人と話をすることができました。

マスコミの報道とからは、
考えられないような原告のお考えを伺いました。
かなり驚きました。

先ず、私があの裁判で一番危惧していたことは、
頂いた幾つものコメントにもありましたように、
新しいクスリを待ち望んでいる多くの患者さんに対して、
新薬の承認が遅くなってしまうことでした。

しかし原告団は、
ドラッグラグの解消、
新薬の早期承認を国に求める活動も
提訴と同時に行われているそうです。
まったく知らない事実でした。

「イレッサ裁判・訂正」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

自ら選択した戦術で早期承認を不可能に追い込んでおいて、「新薬の早期承認を国に求める活動」とは盗人猛々しい。 それでは、自ら放火しまくっておいて火事をなくせと国に言うのと等しい。

また、もう一点、
裁判ではイレッサの製造の取り消しまで、
言及していることもマスコミの報道から知って、
ご家族を亡くした腹いせに、
他の患者さんの権利まで奪う、
とんでもないモンスター遺族だと思っていました。
しかし、その訴えは、
原告の弁護士の考えであり、
はじめから製造取り消しを求めることは、
ご遺族の原告団は拒否されていたそうです。
しかし裁判のプロが訴訟を準備する過程で、
どうしても必要であったらしく、
原告団の訴えは却下され、
プロの指導通りに、
その無茶な訴えも入ってしまったという経過だそうです。

「イレッサ裁判・訂正」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

これは最低の言い分である。 弁護士が依頼人の意向に逆らって勝手な訴訟戦術を取ることはあり得ないから、「プロの指導」に従うと選択したのは原告自身の判断であろう。 つまり、勝率を上げるために他の患者の治療の道を閉ざす訴訟戦術を選択をしたのは原告自身である。

依頼人の足りない法律知識をサポートするのが弁護人の仕事である。 だから、勝つための訴訟戦術を提案するのも弁護人の仕事である。 そして、提案するのは弁護人の仕事だが、選択するのは依頼人の仕事である。 勝つためにあの手この手の戦術を提案したなら、弁護人は真面目に仕事をしているのだ。 真面目に仕事をしている弁護士に責任転嫁するとは最低である。

その事実はマスコミも当然知っているそうですが、
その点を取り上げられることはなく、
その結果、
原告団には非常に厳しい批判が殺到して、
針のムシロの上に置かれる状況に追い込まれているそうです。

「イレッサ裁判・訂正」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

何の言い訳にもならない話をマスコミが採り上げないのは当然である。 むしろ、原告が言い訳工作をしていると報じられないだけ感謝すべきだろう。 あれだけ原告贔屓の報道をしてもらって何が不服なのか。 針のムシロの上に置かれることをしてるのだから、文句を言うのは筋違いである。

11月17日、18日の「イレッサ裁判」 、 「イレッサ裁判・続き」
に対していただいた、
コメントを投稿順に抜粋再掲しますが、
頂いた以下のコメントは杞憂だったようです。

「イレッサ裁判・訂正」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

EGFR変異陰性でもイレッサが効く患者がいるといわれるが、2011年10月31日にイレッサはEGFR変異陽性へ使用が限定された。 これにより、EGFR変異陰性の患者は、イレッサを試すこともできなくなった。 また、これまでフェーズⅡ試験で承認された抗がん剤は、フェーズⅢまで待たなければ承認されなくなった。 がん患者の治療の選択肢は狭められ、抗がん剤の承認は遅くなったのに、何が、一体、杞憂だったと言うのか。

少なくとも、
イレッサ裁判の原告は、
その逆の状況を祈っておられるようでした。

「イレッサ裁判・訂正」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

たとえば、人を殺しておいて「その逆の状況を祈っておられる」などという言い訳が通用するだろうか。 本気で「その逆の状況を祈っておられる」ならば、他の患者の利益に逆行する訴訟戦術を止めれば良い。 他の患者の利益に逆行する訴訟戦術を継続しておいて、「その逆の状況を祈っておられる」は何の言い訳にもならない。 ふざけるのもいい加減にしろ。

先人の努力を無にする行為 

原告達は、『自分たちは可哀想な遺族』という地位に甘え、後先考えずに暴れているだけに過ぎない。 もちろん、こうした原告批判は、遺族の傷口に大量の塩を塗り込んでいるにも等しいことだろう。 しかし、傷口に塩を塗り込む者も患者や家族なのである。 患者や家族は誰もが傷だらけなのであって、彼らだけが傷を負っているわけではない。 そして、原告がやっていることは、患者や家族の傷口にナイフを突き立てるのも同然の行為である。 痛い痛いと喚いてナイフを突き立てる奴がいるなら、そいつの傷口に塩を塗り込んででも必死にはい上がらなければ、明日は我が身なのである。 全く希望の灯の見えない中を手探りで這い回り、どんな苦境に立たされようとも決して希望を捨てずに、前を向いて必死に進んで行くしかない。 そうしなければ、何も変わらない。 変わらなければ、自分たちの子供や孫の世代にも同じ苦しみを味合わせることになる。 それが現実なのである。 そんなのは理不尽だと叫んだ所で、現状が何か変わってくれるわけでもない。 改革に向けて一人一人が頑張らなければ明日はないのである。

誰かが何かを変えてくれることを待っていても時間の無駄である。 自分たちで動かなければ何も変わらない。 そう気づいた人達が日本の医療を変えようと必死に頑張っていた。 たとえば、がんと共に生きる会初代会長新山義昭氏(故人)を初め、多くの患者と家族達が患者団体を立ち上げ、どうすれば、現状を変えられるかを考えながら行動してきた。 現状を変える為には、時に感情を押し殺して理性的に行動することも必要である。 本音では役人の頭をはり倒したいと思っても、必死に感情を押さえつけ、根気よくかつ理性的に訴え続け、そうして、少しずつ日本の医療は変わり始めていた。 イレッサの早期承認もそうした変化のひとつである。 そして、事実関係を詳細に検証してみれば、国の迅速な対応で副作用死は最小限に抑えられたのである。 そうした国のファインプレイに対して、大チョンボであるかのように批難しても日本の医療は良くならないどころか返って悪くなるだけであり、それは頑張ってきた先人達の努力を無にする行為なのである

何度も言うように、原告達が、当事者間の問題について裁判を起こすのは自由である。 しかし、当事者間の問題に留めずに、他人に悪影響を及ぼそうとするなら、批難されて当然である。 原告達には、彼らのせいでどれだけの人が迷惑を被っているのか考えてもらいたい。 もちろん、正義の味方気取りで原告を焚き付けた連中が一番悪い。 しかし、彼らの口車に乗せられたとはいえ、原告も自分で行動を起こしたのだから、自身の行動に対する責任を免れない。 その責任がネットでの批難程度で済むなら安い物であり、原告批難に対して文句を言われる筋合いはない。 批難されるのが嫌なら、他人に迷惑をかけないように行動すべきだろう。

自称関係者の詭弁 

私は、イレッサ訴訟に関わっている者です。
(原告ではありません。)

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

「イレッサ訴訟に関わっている者」であって「原告ではありません」なら、この人物はいったい誰であろう。 弁護人が医師個人のブログに書き込みを行なうとは考え難い。 大方、浜六郎なる正義の味方気取りの取り巻き連中であろう。

世間の多くの皆さんは、イレッサ裁判を、「貴重な薬を一個人が勝手なわがままからなくそうとしている」のだと受け取られているようですが、それは誤解です。

イレッサ裁判は、間質性肺炎で亡くなった方のご遺族が、なぜ家族が死ななければならなかったのか、その理由を突き止めたい、という思いから始まったものです。
そして、原告となった方の望みは、今後少しでも安全な薬を提供してもらいたい、というものです。

最終的に裁判で、イレッサに有効性アリと判断されたら、それもまた原告にとって一つの答えです。
逆に、イレッサに有効性ナシと判断されたら、イレッサの乱用は禁止、しかし既に服用されているがん患者の方々のためには、メーカに供給継続を義務付ける、ということを、裁判では訴えています。

今では、イレッサの副作用も認知されており、使う人は自己判断で、ということになっているようですね。
ですが、原告のご家族がイレッサを服用されていた当時は、イレッサが正に「夢の新薬」としてもてはやされ、副作用も少ないと言われていた頃だったのです。

原告は、もがき苦しみながら亡くなったご家族を前に、「こんなはずじゃなかったのに」という思いにさいなまれたことでしょう。
その後、イレッサにも副作用があることが(医療関係の方には副作用の無い薬がないことは当然でしょうが・・・)一般的にも認知されました。
原告にとっては正に寝耳に水です。
「重篤な副作用は無い」と言われ、また、そう信じてきたのですから。

原告は、ご家族が亡くなったことの責任の所在を、明らかにしたいと考えるようになりました。
そして、裁判を提起するにあたり、先ずはその責任の所在を、薬を売ったメーカや薬を承認した国に問うてみることになりました。
マスコミ等、他にも責任を問い得る対象はいますが、先ずは薬の元締めから、ということです。

原告は、自分と同じように、最愛の家族を苦しみながら死なせるような思いをする人は増やしたくない、という思いで裁判を提起したのです。
ですが、ニュースでは、まるで原告が考えなしに家族の死をイレッサのせいにしているかのように報道されてしまいます。
そして、そのことで、多くの人、特に現在イレッサを服用されている方々や、医療関係者の方々から、批判を浴びることとなってしまいました。

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

本当に「なぜ家族が死ななければならなかったのか、その理由を突き止めたい」と思っているなら、医師を訴えないのはおかしい。 理由が分かっているなら突き止める必要はない。 理由が分かっていないなら、根拠もなく可能性を排除していては、真相には辿り着けない。 裁判が理由を突き止めるのに必要であるなら、当然、医師の責任であることも可能性のひとつなのだから、医師を訴える必要があるはずである。 それなのに、どうして医師を訴えるどころか執拗に擁護するのか。 それは、初めから国や製薬会社が犯人だと決めつけているからである。 判決が出る前から原告にとって受け入れる結論は決まっているのだ。 原告は「国と製薬会社の故意又は過失が原因である」という結論しか受け入れるつもりがないのである。 だから、医師を訴えない。 「その理由を突き止めたい」のではなく、原告の望む結論を裁判所に支持してもらいたいだけである。 これは正しく「原告が考えなしに家族の死をイレッサのせいにしている」行為そのものである。

「裁判を提起するにあたり、先ずはその責任の所在を、薬を売ったメーカや薬を承認した国に問うてみる」が根本的におかしい。 これが殺人罪だったら、容疑者1人1人を相手にして手当り次第に裁判を起こすのだろうか。 まず、容疑者Aを訴え、容疑者Aが無罪になれば容疑者Bを訴え、容疑者Bが無罪になれば容疑者Cを訴え、と延々と続けることがまともなやり方だろうか。 普通のやり方なら、訴える前にいろいろ調べて容疑者を絞り込むのが先だろう。 濡れ衣でも構わずに手当り次第に訴えるというやり方はどう考えておかしい。

当会(仮)代表も、原告の方に必要な情報を教えて差し上げようとした。 しかし、この方は情報提供を拒否したのである。 ようするに、原告は真実を知りたいのではない。 原告が信じるのは自身の脳内で信じる「真実」だけなのだ。 信じる「真実」を補強するのに役立つ情報を知りたいだけである。

原告の行動の動機は、やり場の無い憤り、その1点に尽きる。 憤りの持って行く場所がないから、復讐相手を探しているのだ。 ただ、自分の復讐心を満たすのに都合が良いシナリオを、自分の願望の趣くままに作り上げているに過ぎない。 ただ、そのシナリオは結末だけしか決まっていない。 巨悪である国と製薬会社が陰謀を働いた。 そして、裁判で彼らの悪業が白日の下に晒される。 最後には何もかも解決してメデタシメデタシ。 原告が「突き止めたい」「その理由」とは、真実のことではなく、その結末に持って行く展開である。 復讐相手となる巨悪が居て欲しいという願望に沿ってシナリオを組み立てているのであって、そこには何の思考もない。

「最愛の家族を苦しみながら死なせるような思いをする人は増やしたくない」? 原告は、そう思っていても、そう考えてはいない。 何も考えていないから、勧善懲悪の三文ドラマのように、とにかく“巨悪”を倒せば「最愛の家族」は苦しまないことになっているのだ。 「最愛の家族」を守れるために何をすべきか全く考えておらず、とにかく“巨悪”を倒すことだけに固執しているのだ。 腹黒い製薬会社、国家権力を我が物にする厚生労働省という悪い奴らが居て、家族が死んだのはそいつらのせいだと。 そして、悪い奴らを倒せば家族は幸せになれるという都合の良い絵が最初から出来ているのだ。 これは、フィクションと現実の区別のついていない、どこからどう見ても「考えなし」の行動である。

原告は、そのことに大変胸を痛め、傷ついています。
「自分が訴訟を起こしたせいで、イレッサを服用できずに死ぬ人がいるのか」
「自分のやったことは間違っているのか」・・・

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

「自分のやったことは間違っているのか」と思い悩むことは、考えることと全く違う。 答えの出すために、必要な手順を踏んで思考することを考えるというのだ。 情報が足りてないなら情報を集める。 ゴチャゴチャした話を整理する必要があるなら整理する。 証拠が必要なら証拠を揃える。 論理が必要なら筋道立てて考察する。 そうしたことをせず、ただ、結論が真か偽かを選択しようとしても、堂々巡りに陥るだけで、一生答えなど出るわけがない。 それは「胸を痛め」「傷ついて」ることにはなるが、考えてることには全くならない。 原告の問題は、「胸を痛め」「傷ついて」ないことではなく、願望に都合の良いスキャンダルを盲目的に受け入れて、自分の頭で全く考えていないことなのだ。 自分だけの問題なら好きなだけ「胸を痛め、傷ついて」いれば良い。 しかし、多くの他人を巻き込んでおいて、「胸を痛め、傷ついて」いることを言い訳にして、自分が取るべき行動を考えないのは無責任極まりない。 原告の言い訳が通るなら、国や製薬会社も同じ言い訳を使えば良い。 承認手続や添付文書の記載内容について、国や製薬会社が「自分のやったことは間違っているのか」と悩み、原告から「批判を浴びることとなってしまい」「大変胸を痛め、傷ついています」と。 国や製薬会社がそのような言い訳を使う事を許せないと言うなら、原告も同じ言い訳を使うべきではない。

しかし、前述の通り、イレッサ裁判の目的は、イレッサを無意味になくすことではなく、人一人が亡くなったことの責任の所在を明らかにするものです。
その中で、イレッサの有効性の有無が、抗がん剤の承認方法が、焦点となっているのです。

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

裁判は「イレッサの有効性の有無」「抗がん剤の承認方法」に言いがかりをつけることが「焦点」であることは確かであろう。 そして、「イレッサ裁判の目的」が「人一人が亡くなったことの責任の所在」を国や製薬会社に転嫁することである。 これは「イレッサを無意味になくすこと」だけでは済まず、今後産まれてくるであろう新薬までをも無意味になくそうとしているのである。

軽々しくは言えませんが、イレッサの有効性の有無が明らかになった方が、多くの方にとってもプラスなのではないでしょうか。

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

「イレッサの有効性の有無が明らかに」しているのは、世界各国の研究者達であって、原告の起こした裁判は何の役にも立っていない。 浜六郎なる正義の味方気取りの取り巻き連中は、無関係な「話を軽々しく」持ち出して論点を誤摩化そうとしているだけである。

決して、抗がん剤の承認を遅らせたり、医療現場に横槍を入れるようなことが目的ではないことを、ご理解いただきたいものです。
ぜひ、暖かく裁判の結果を見守っていて欲しいのです。

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

原告は「抗がん剤の承認を遅らせたり、医療現場に横槍を入れるようなこと」を要求している。 首を長くして治療薬を待っている難病患者にとっては、自分達を死に追いやる原告達の行為をサッサと止めさせたいと思っているだろう。 そうした難病患者達の立場も考えずに「暖かく裁判の結果を見守って」などとは全く身勝手にも程がある。

長々と申し訳ありません。
世間の方々の受けとらえ方と、裁判の目的とが、あまりにもかけ離れているように思えたので、思わず書かせていただきました。
不適切な表現がありましたら、どうぞご容赦下さい。

「イレッサについて奇妙なコメント」 - 現在のガン治療の功罪~抗ガン剤治療と免疫治療

以上のとおり、「あまりにもかけ離れている」のは浜六郎なる正義の味方気取りの取り巻き連中の表と裏であって「世間の方々の受けとらえ方と、裁判の目的」ではない。

弁護士は職務を果たしているだけ 

ここまで事態を悪化させた原告団という弁護士達と事実を伝えてこなかったマスコミはどうしてくれるんでしょうか。 国は和解拒否 - 56歳団塊退職起業 - 62歳がん闘病廃業+イレッサ回復日記

マスコミはともかく「弁護士達」に責任転嫁するのは適切とは言えない。 弁護人の仕事は、依頼人にとって足りない法的知識を補うことである。 方針を決めるのは依頼人であって弁護人ではない。 裁判における方針を決めるのは当事者固有の権利であって、弁護人には依頼人の決定権を剥奪する権利はない。 弁護人は知恵を授けるだけに過ぎない。 そして、依頼人に可能な限りの最大の知恵を授けることが弁護人の努めである。 勝つ為の戦術を授けても、それは弁護人が自分たちの職責を全うしたことを意味するに過ぎない。 その戦術を使うと決めたのは依頼人である。 よって、弁護団の口から発せられた発言内容に大いに問題があったとしても、それが弁護士の独断ではない以上、全て依頼人の責任に帰すべきことである。

尚、ここで言う「弁護士は職務を果たしている」とは、依頼人の訴訟上の戦術を優先して、倫理的な問題や公共の利益を全く顧みないことを指している。 依頼人の訴訟上の勝敗の観点において適切な戦術を提示できているかどうかにまでは踏み込んで「職務を果たしている」と評価しているわけではない。 改めて訴訟戦術を検証してみると勝訴を勝ち取る余地がない自画自賛の訴訟戦術ばかりで、勝てる可能性のある戦術は一つも採用されていない。 そればかりか、印紙代の払い忘れで一部の原告の敗訴が確定するという、訴訟のプロとしてあってはならないことまでやらかしている。

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